アリストテレス(Aristoteles):生涯と著作

ソクラテス、プラトンと並んで、古代ギリシア哲学の巨人と称されるのが、アリストテレスである。

生涯

アリストテレス(B.C.384〜322)は、ギリシア北部のスタゲイラというギリシア人の植民都市に生まれた。
当時、スタゲイラはマケドニアの支配下にあり、アリストテレスの父ニコマコスはマケドニア王室専属の医師であった。
両親は、アリストテレスが青年のときに亡くなってしまうが、義理の兄であったプロクセノスを後見人とし、17歳のときにアテナイへ赴(おもむ)き、B.C.367年、プラトンが設立した学園「アカデメイア」に入学する。
アリストテレスは、20年間「アカデメイア」で学び、その後、小アジアのアッソス、レスポス島と移住し、B.C.336/335年にアテナイへ戻ると、まもなくして、マケドニア総督アンティパトロスの庇護(ひご)のもと、郊外のリュケイオンに学園を設立した。
このとき、ふたたび「アカデメイア」に戻るという選択肢もあったはずだが、アカデメイアに戻らなかったのは、当時のアカデメイアは数学的・思弁的な傾向を色濃くしており、生物学的・実証主義的なアリストテレスとは相容れなかったからだという可能性がある。
アリストテレスが設立したこの学園は、地名にそのままちなんで、「リュケイオン」と呼ばれている。
ちなみに、リュケイオンにおいてアリストテレスは、弟子たちと散歩道を歩きながら(逍遥しながら)哲学や学問について議論したことから、彼らは「逍遥学派」(しょうようがくは)=「ペリパトス学派」と呼ばれるようになった。

B.C.323年、東方遠征中のアレクサンドロス大王が急逝(きゅうせい)したのを機に、マケドニアに押さえつけられていたアテナイの市民たちは、反マケドニア運動を起こした。
アンティパトロスと親しい関係にあり、アテナイの市民に嫌われていたアリストテレスは、瀆神罪(とくしんざい:神をおとしめたという罪)の嫌疑をかけられ、アテナイを追われる。
そして、母方の故郷であるエウボイア島のカルキスに逃れたアリストテレスであったが、翌年、病のため、62歳でこの世を去った。

著作

アリストテレスは、公開用の対話篇や研究資料、メモなどを数多く書いたとされているが、そうした類いの著作はほとんど残っていない。
現存するアリストテレスの著作の多くは、リュケイオン時代の専門教育用の論文群である。

このテキスト群は、リュケイオンの最後の学頭であったアンドロニコスによって編纂されたと伝えられ、『アリストテレス著作集』と呼ばれている。
『著作集』のなかには、まず、『カテゴリー論』(範疇論)『命題論』(解釈論)『分析論前書』『分析論後書』『トピカ』『詭弁論駁論』(きべんろんばくろん)といった6篇の論理学関係の著作が収められている。
ちなみに、これら6編の著作群は、6世紀ごろ、あらゆる学問の“道具”という意味をこめて『オルガノン』と総称されることとなった。
上記6篇に続いて収められているのは、『自然学』『天界について』『生成と消滅について』『霊魂論』『動物誌』『動物部分論』『形而上学』『ニコマコス倫理学』『政治学』『弁論術』『詩学』などの論文である。
著作のタイトルを見るだけでも、アリストテレスが、現代で言うところの人文科学、社会科学、自然科学のすべてに精通していたということがわかるだろう。

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