カント(kant):美の考察と趣味判断

カントは、『判断力批判』において、心の働きのうちの感情を取り上げることを通して、人間が美についてどのように判断するかを考察した。

カントによれば、私たちがある対象について“美しい”とか“醜い”(みにくい)と判断するとき、それは、快不快の感情に従っているという。
当人が主観的に快さ(こころよさ)を感じる対象については“美しい”と判断し、不快に感じる対象については“醜い”と判断するというのだ。
こうした判断を、カントは「趣味判断」と呼んだ。

趣味判断は、「美的判断力」(「直観的判断力」)によってもたらされる。
「美的(直観的)判断力」は、認識における真偽の判断能力や実践における善悪の判断能力とは異なる能力であるものの、人間にとって、それら2つの能力と同じくらい重要な能力である。
そして、悟性と実践理性の「中間項」として機能するという。
つまり、感情は、知と意志の中間にあるものなのである。(※1)

カントによれば、そうした趣味判断は、「質」「量」「関係」「様相」という4つの観点(契機)から考察することができるという。

「質」における考察

趣味判断の元となる快は、感覚を満足させる快や道徳的善からもたらされる快のような、対象の存在を前提する「関心と結びついた満足」とは違い、「無関心な満足」である。
つまり、ある対象が美しいかどうかを判断するときに必要なのは、その対象の表象が自分のなかで満足を生み出しているかどうかであり、その対象がどう存在するかでは決してない。

「量」における考察

“この薔薇(ばら)は美しい”と判断するとき、その趣味判断は当人による、そのとき、その場所における個別的で主観的な判断にしかすぎないが、しかし同時に、他人も“この薔薇は美しい”と思うはずだという普遍妥当性をも要求する。
これは、趣味判断が、「構想力」(直観によって受け取った多様な内容を結合し、統一させる能力)と悟性という認識能力の「自由な戯れ」に関わっているからである。

「関係」における考察

趣味判断は、対象に「合目的性」を見出すときに成立する。
たとえば、とても住み心地がよいように建てられた住宅や、極限までスピードが出るレーシングカーは、それぞれの目的を充分に実現する形態をしているため、美しいと感じるのである。
ただし、カントによれば、目的にどれくらいかなっているかは美的判断の基準になるものの、目的そのものは問われないという。

「様相」における考察

趣味判断は、認識判断とは異なり、「概念」=カテゴリーを媒介させなくとも成り立つが、その一方で、あらゆる主観に共有される美に関する感覚=「共通感官」によって、あらゆる人からの「普遍的同意」を要請する。
“美しい”と感じるのは個々人の趣味にもとづくが、それにもかかわらず、美はたんなる主観の域を超えて人々に共有される社会的な現象である。
その根拠となっているのが、共通感官だという。
ただし、共通感官は、カテゴリーのように明確化できるものではない。

カントは、こうした美の考察によって何をなそうとしたのであろうか?
美は主観的でありながら普遍性を要求し、概念(カテゴリー)を媒介しなくても成り立つが、合目的性を含むという。
まるで奥歯に物がはさまったかのような言い方であるが、これは、美というものが道徳をめざしている(目的としている)とカントが考えていたからだと推測できる。
美は、道徳のように道徳法則という確固とした基準を持っていない。
それゆえ、美しいものの判断は自由である。
しかし、同時に、美は普遍妥当性を要求する。
このとき、美の判断は、自由意志によって自発的に普遍性(悟性)と一致しようとしているのである。
これは、道徳が、やはり自由意志によって道徳法則と一致しようとするあり方と同じである。
つまり、カントの哲学においては、人間は美という主観的な判断を通じて、道徳という普遍性とつながっているのである。
このようにカントは、美を道徳に還元できるものと考えたのであった。

(※1)カントにおける「判断力」には、悟性と理論理性との「中間項」として機能するものもある。この場合の「判断力」は、自然や世界に関する認識内容を概念化するプロセスにおいて機能する。(「カント:純粋悟性概念」を参照)

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