スピノザ(Spinoza):心身平行論と自由意志の否定

スピノザにおいて、実体はただ神のみであり、精神と物体(身体)は神という1つのものを別々の側面から捉えて見たものにすぎないのであった。
そして、精神と物体(身体)は相互に平行していて対応するが,両者は互いに影響を及ぼし合うものではなく、物的(身体的)事象はあくまで他の物的(身体的)事象とのみ影響しあい,心的事象は他の心的事象とのみ影響しあうのだとされた。
このような、精神と物体(身体)を別系統として捉える考え方を「心身平行論」と呼ぶ。

精神と身体が別系統のものであって、両者に相互作用が認められないのだとすると、精神が身体に影響を及ぼすことは考えられないのだから、人間が何かを意志して何かを行なうという考え方そのものが成立しないことになる。
コップを手に取るという行為を例に挙げると、われわれはふつう、(1)コップを手に取ろうと意志する、(2)意志によってコップに手を伸ばす、(3)実際にコップを手に取る、というプロセスを思い描く。
ここには、“自由意志を原因として行為をなす”という考え方がある。
しかし、スピノザの心身平行論によれば、コップを手に取ろうとする意志と、実際にコップを手に取る行為とのあいだには因果関係はなく、両者はどちらも神を原因として同時に平行して起こった事象にすぎない。
つまり、スピノザは、行為の原因としての自由意志を否定したのである。

自由意志の否定は、スピノザのエチカ=倫理学の基礎となった。
人間に自由意志はないのであるから、われわれが何か不合理なことや不都合なことをこうむったとき、その行為の原因を当の行為者の意志に求めることはできない。
すべてを「永遠の相のもとに」=神の視点から見れば、すべては神の必然性の一部として起きた(起きる)のであるから、すべてを肯定し、赦(ゆる)すことしかできないのである。
そして、すべてを肯定し、赦すことができたとき、人は神を愛すことになり、また、神からも愛されることになる。
それは、神はすべてであり、人は神の一部だからである——

スピノザは、ユダヤ人であり、ユダヤ教団に属していたが、汎神論にもとづく特異な哲学を唱えたために、不敬虔(ふけいけん)であるとして破門され、ユダヤ人社会からも追放された。
しかし、哲学史においては、神を核とする一元論の体系が、のちのドイツ観念論の哲学者たちに高く評価され、大きな影響を与えることとなった。

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