トマス・アクィナス(Thomas Aquinas):神の存在証明

トマス・アクィナスは、『神学大全』の第1部第2問題第3項において、“神は存在するか?”という問いを発している。
この問いに対し、トマス・アクィナスは、まず、“神は存在しない”という反論について吟味することから「神の存在証明」を始めている——

もしも対立するものの一方が無限であるとすれば、もう一方のものは完全に追いやられるはずだ。
それゆえ、無限な善であるはずの神が存在するならば、この世の悪は追いやられるはずだ。
しかし、この世には悪が見出される。
したがって、神は存在しない。

トマス・アクィナスは、さらに、反論について吟味を進める——

世界のなかに存在するものは、自然のものであれば自然の本性という原因にさかのぼって説明することができる。
また、計画や自由裁量にもとづくものは、人間の理性や意志という原因にさかのぼって説明することができる。
したがって、神が存在すると考える必要はない。

こうした吟味をしたうえで、トマス・アクィナスは、聖書の『出エジプト記』のなかの「わたしはある。わたしはあるという者だ」(3章14節)という神自身の言葉を挙げる。
いったい、神は存在しないのか?
それとも、神は存在するのか?
トマス・アクィナスは、上記2つの反論への“答え”を導くにあたって、まず、アリストテレスの哲学を援用しながら、神が“存在”することを下記の5つの方法によって理性的に“証明”した——

第1の方法:運動変化による証明

世界には、運動変化がある。
運動変化するものは、すべて他のものによって動かされている。
そして、その運動の原因となるものも、何か他のものによって動かされている。
このように運動変化の原因をさかのぼっていけば、最終的には、他のものによって動かされたのではない、最初に動かしたものがなければならない。
それは、人びとが神だと理解しているものである。

第2の方法:始動因による証明

始動因とは“ものの変化または静止を起こす原因となるもの”のことであるが、あるものが自分自身の始動因になることはありえない。
なぜなら、自分自身がみずからの始動因であるならば、自分が自分自身に先立って存在しなければならなくなるからである。
一方、始動因はすべて順序立っており、最初の始動因が、複数あるであろう中間の始動因の原因であり、中間の始動因が最後の始動因の原因である。
つまり、始動因には必ず“最初の始動因”が存在するのであり、これを人びとは神と呼んでいるのである。

第3の方法:可能性(偶発性)と必然性による証明

事物のなかには“存在することも存在しないことも可能なもの”=たまたま偶然に存在するものがあるが、そうした偶発的なものが存在するのには原因がある。
この原因をさかのぼっていくと、存在することが必然であるものの存在を認めなければならない。
そうした存在は、存在することが必然だから存在しているのであり、必然性の原因は他によるものではなく自分自身の内にしかない。
人びとは、そうした存在を神と呼んでいるのである。

第4の方法:段階と完全性による証明

ものの質は、一方より他方のほうがより高い。
たとえば、大理石でつくられた2つの彫像があるとすると、どちらか一方の彫像のほうが、もう一方の彫像よりも美しいはずである。
こうした判断が可能なのは、美や知恵など、あらゆるものの質の段階を判断するための規準があるからであり、そうした規準は最高の完全性を持っていなければならない。
そして、そうした最高の完全性は、神に含まれていると考えるしかないのである。

第5の方法:世界秩序の存在による証明

物体には知性がないが、その物体はなんらかの目的へ向かって動いているように見える。
目的へ向かうのは、そこになんらかの意図が働いているからである。
矢が射手によって的へ向かって放たれるときのことを考えればわかるように、知性を持たない物体は、認識と知性を備えたなんらかの存在によって方向を与えられなければ、目的へ向かうことができない。
それゆえ、すべての自然物を目的へと向かわせる、知性を備えた何かが存在していると言える。
そうした存在を、人びとは神と呼んでいるのである。

トマス・アクィナスは、こうした“証明”をしたうえで、上記2つの反論への“答え”を導いている——

“この世には悪が見出されるから神は存在しない”という反論への答え

アウグスティヌスは、『提要』において、「神は最高度に善であるから、もしも神が悪からでさえも善を造り出すほどに全能かつ善でなかったならば、いかなるものであろうと、なんらかの悪がみずからの業のうちに存在することを許さなかったであろう」 と述べている。
したがって、悪が存在することを許し、悪から善を引き出すことは、 神の無限の善性に属している。

“あらゆるものは神にまで原因を求めなくても説明できるから神が存在する必要はない”という反論への答え

目的へ向けて自然が働くのは、なんらかの上位の作用者によって方向づけられたものであるから、自然によって生じるものが第一原因である神に還元されることは必然である。
同じように、計画や自由裁量によって生じるものも、人間の理性や意志ではないなんらかのより高い原因に還元されなければならない。
なぜなら、 人間の理性や意志は変化しやすく欠陥がありえるものであり、さらに、可動的で欠陥がありえるものはすべて、不動な、それ自身によって必然的であるなんらかの第一原因にまで還元されなければならないからである。

このようにして、トマス・アクィナスは、神の存在を“証明”したのだった。
しかし、トマス・アクィナスの哲学にとって神とは、存在することは“証明”できても、その本質を明らかにすることはできない存在であった。
つまり、神の本質を知るには神学=信仰によるしかなく、そのため、「神学と哲学の関係」において見たように、哲学(哲学的真理)は神学(宗教的真理)によってはじめて完成されるのであった。
 

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